2024年9月8日
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ヘブル12章 「一時的な苦難に負けるな!」

  ヘブル12章 「一時的な苦難に負けるな!」
 (私のFacebookのNote参照です)

16節 「また不品行の者や、一杯の食物と引き換えに、自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような
俗悪なものがないようにしなさい。」


なぜここで、ヘブル人への手紙の著者は俗悪なものとして、エサウ、を登場させたのでしょう。エサウって、どっちかというと、ヤコブにだまされた被害者のようなイメージの方が強いかもしれない。それにもっと俗悪な者ならたくさんいるはずだ。なぜわざわざエサウを登場させたのだろう?

創世記にこう書いてある。(エサウについては創世記25,27章を参照)
「エサウは、『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など今の私に何になろう。』といった。それでヤコブは、『まず、私に誓いなさい。』といったので、エサウはヤコブに誓った。……….こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」 
(創世記25:32~34)

 エサウは一時的な空腹のために、長子の権利を軽蔑しました。
彼の中では 空腹>長子の権利 だったのです。

☆エサウは、一時的な者に耐えられなかった人の象徴。

実際私たちにも困難はたくさんあります。

6節 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。」
7節 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子が
いるでしょうか。」
8節 「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。」

結構厳しいことが書いてありますが、これは真実です。
神は私たちを懲らしめます。それは7節の通り、訓練のためです。

それでは、どうしたら、その訓練に耐えられるのでしょうか。

2節 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びの
ゆえに、はずかしめをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
3節 「あなたがたは、罪人たちのこのような犯行を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです。」

 イエス様自身、十字架という最大の苦難を、喜び、すなわちその苦しみの後に来る永遠の栄光を見て、愛をもってその一時的
な苦しみを忍ばれました。こうして私たちに模範を示してくださったのです。そのイエスから目を離さず、イエスのことを考えるとき、私たちは力を受けます。

  「しかし、主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:31)

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように。試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
(第一コリント10:13)

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないもの
いつまでも続くからです。」
 (第2コリント4:18)

3節のとおり、イエス様に目を向けるとき、私たちには希望があり、疲れることがありません。乗り越えられないように見える困難も、イエス様に目を向けていれば乗り越えることができます! 

☆イエスから目を離さずにいれば、苦難を乗り越えることができる。

そしてこれらのみことばはヘブル12章にもつながってきます。
11節 「すべての懲らしめは、その時は喜ばしい、ものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」


神は訓練の、後の祝福を約束されました。
私たちには、イエス様によって、栄光が、そして永遠が与えられています。
その永遠の栄光を見るときに、私たちはこの世の一時的な者に耐えることができるのです。

「それは、私たちの神であり、主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなた方も主にあって栄光をうけるためです。」 (2テサロニケ1:12)

  「ですから私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、
それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」 
(2テモテ 2:10)

「神の愛のうちに、自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
(ユダ21節)

エサウの中では 空腹>長子の権利 でした。
その、空腹、という困難を、私たちに当てはめてみたらどうでしょう?
イエス様を信じる信仰とあてはめてみると分かりやすいかもしれません 

あなたのなかではどうですか? 私たちは困難と引き換えに、イエスを信じる信仰によって与えられる、神の国子としての特権を捨てないようにしましょう。神は、苦難を忍んだものには祝福を約束されます。そして忍ぶことができなかったものには裁きが待っています。

「もし、子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストの共同相続人でもあります。」 (ローマ8:17)

25節 「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰をまぬがれることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

そして先ほど、イエス様から目を離さないでいよう。といいましたが、ヘブル12章にこうも書いてあります。

14節 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
 
….聖くなければ、だれも主を見ることができない。 厳しいですね。
苦難を乗り越えるにはイエス様を見ること→イエス様を見るには聖くなること。

どうしたら、聖くなれるのか→自分の努力、必死で聖くなることを追い求めること。
                   悔い改め、信仰により、完全なるいけにえ、イエス様を受け入れることによって。
  
そしてこうも書いてあります。
17節 「あなたがたが知っている通り、彼(エサウ)は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。
 涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」

エサウは、涙を流しても心を変えてもらう余地がなかったのです。
それは彼が悔い改めていなかったからでした。彼は涙を流して悔い改めたのではなく、涙を流して祝福を求めただけでした。彼はすべてをヤコブのせいにし、自分の過ちには気付いていませんでした。

「金持ちとラザロの話」(ルカ16章)のように、報いを受けた後になってからではもう遅いのです。
黙示録9章20,21節には、もう人が悔い改めることはなくなると書いてあります。

ヘブル12章1節
「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を
忍耐をもって走り続けようではありませんか!」

ですから私たちはイエス様にあって悔い改めまよう!
 そしていつもイエス様を見ることができる特権に感謝しな
がら、
聖くなることを追い求め、走り続けましょう!

 そしてこの素晴らしい真理をまだ日本にいる99%のノンクリスチャンに、世界に伝えよう!!!

-まとめー
苦難はやってくる
☆苦難は訓練のため
 ☆訓練は神の聖さにあずかるため
 ☆聖くなればイエスを見ることができる。
☆イエスから目を離さないことで私たちは困難を乗り越えられる。
☆イエスにあって私たちには栄光と永遠が与えられている

☆一時的な苦難に負けるな!イエスを信じる信仰を捨てるな!

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