2025年9月28日
特別テーマ

繁栄の原則その2 神を畏れる

3日目に神様がすべてのイスラエルの民に現れました。しかし、イスラエルの民は、離れていました。彼らは、神様のご臨在から逃げたのです。神様の栄光の臨在を耐えられなかったからです。 奇跡は体験して好きだったが、神様ご自身と親密な関係は、拒みました。 この世的な価値観や世的な欲がまだ、彼らを支配していたからです。 

出エジプト記20:18 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち
20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
20:20 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである

モーセは、民に言った。恐れることは無い。そして、神様が現れたのは、民を試し、神様を畏れることから、彼らが罪を犯さないようにさせるためであった。

神様を恐れることは、おびえることのように感じます。しかし、神様を畏れるのは、違います。

おびえている人は、神様から隠れる人となりますが、神様を畏れる人は、何も隠れることが無いため、神様の身元に来ることが出来ます。

ルカ12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。

ここで、恐れる相手について教えています。畏れるべき神を畏れなさいと教えています。神様が再び来られる時は、すべてが明らかになる。

神様を見るには、自分が清められなければならなりません。神様は、罪と一緒にはいられないからです。

出エジプト20章20節では、神様を畏れる事が私たちを罪から離れるようにさせると教えています。

神様をおびえる人は、神様から自分を隠すが、神を畏れる人は隠す必要がありません。逆に、罪から遠く離れて、神様から離れることを恐れます。

神を畏れる事によって罪から離れるからです。

アメリカに有名なテレビ伝道者である、Jim Bakerという人がいました。彼は、大きな影響力のある人となり、多くの人から献金を受けていましたが、不正なことを行いましたので、刑務所に入りました。彼は、神の哀れみに触れまして、心が謙っていました。あなたは、いつから神様を愛さなかったのか?と聞かれました。しかし、彼は言いました。私は神様を愛さなかったのは無い。それでは、なぜ、そんな罪を犯したのか?と聞かれたとき、彼は、「神様を畏れなかった。」 これは、彼にとって神様が絶対的な権威ではなかった神様を愛しているが、神様を畏れなかったということでした。

ここで、あるバランスがクリスチャンに必要であることがわかります。

片方のみぞは、律法主義です。これは、律法的に宗教的な行いを行うことです。神は良い神。愛を示される。 は、律法から離れさせる。 宗教的な行いより神様との関係を持つことが大切です。

もう一つのサイドのみぞは、不法です。これは、不従順や罪を犯すようになります。 不法に入らないようにするのが、神様を畏れることです

そのようなバランス良く歩むためには、神様の立場で考える訓練が必要です。父の心や神様の性質を学ぶことが必要です。そのために、神様に近づき、神様の御栄光を体験する必要があります。神様の栄光は、神を神となされるすべてです。

モーセは、神様の栄光を見たかったが、神様は神様の後ろの姿しか見せて下さらなかったのです。

イエス様もお弟子たちに、ご自分の栄光を表されました。太陽のようになり、これを見たお弟子たちは、死人のようになりました。

ある予言では、イエス様が明るいから、太陽が月を暗くさせるように、キリストが太陽を暗くさせると教えています。

出エジプトのお話に戻りますが、神様は、アロンとモーセを選びましたが、アロンは、神様の前に来ないで、イスラエルの民と一緒にいました。

出エジプト23章では、アロンが民と一緒にいたと書いてあります。イスラエルの人々といて、神様の臨在よりも人といるのが居心地よかったでしょう。 

出エジプト32章1節には、「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、」と書いてあります。
ここで、なぜ民はアロンに来たのでしょうか? 答えは、自分たちが願うことをくれると思ったからです。

リーダーが神様と時間を過ごさないなら、人の欲しいことを言うようになります。神様と時間を持つことによって、神様の願うことを知り、民にないを言えば良いかが分かるようになるからです。

彼らの願いは、神様を作って欲しいことでした。聖書では、2000回も創造主の神が出ます。

4節では、アロンは、自分で偶像を作り(fashioned it)、 これが神だと民に紹介しました。その時、アロンが使った神様という単語にYawehという単語を使いました. これは、創造主で最も聖なる神の名前です。最も神聖な言葉でした。当時、違った神には、使われなかったのです。 これが、エジプトから導いた神(Yaweh)だと言いました。 彼らは、Yawehが奇跡を起こしたと言うことは認めたが、本当の神を偶像にさせました。

24節には、神様がイスラエルの民を神の民とは言えず、モーセの民と語りました。

アロンは自分で偶像を作りました。なぜでしょうか? 彼の神様と40日間の時間を過ごしていなかったから、神様のイメージは、エジプト(世)によって形作られたものと考えたからです。 神様のイメージが神から来たものではなく、この世から来たものです。アロンが神様の身元に行かなかったから、彼は神様(創造主)の正しい見方がありませんでした。

申命記5章では、イスラエルのは神様に来ようとしていません。なぜ? 神様を畏れることがないからだ。彼らは、天幕に戻り、モーセは、神様と一緒にいました。モーセは、神を畏れる心があったからです。

ローマ1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません

世の終わりになれば、神様の裁きがあります。その時、造られたすべてのものは、弁明の余地が無いのです。その時が来る前に、主を畏れ、神様と親密な関係を築くことが何より重要であります。

出エジプトのイスラエルの民は、神を知っていながら
神様の栄光を人間の作ったものとしました

現代に生きる私たちの偶像は、神様の形で造られた自分自身です。自分自身を礼拝することです
。教会の人に罪があるのは、イエス様は、自分のレベルにしたことにあります。 神様の栄光が引き下げられると神様の栄光が下げられます。

箴言1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る

箴言2:5 あなたは主を畏れることを悟り/神を知ることに到達するであろう

主を畏れることが神様と親密な関係を持つ始まりであります

詩篇25:14 主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる

神様は、神様の秘密を誰に分かち合うか? それは、神様を畏れる人です。

旧約聖書で、神様の友となったのは、アブラハムとモーセです。 

アブラハムは、イサクを捧げました。翌朝早く、アブラハムは、自分のいるところから神様の命じられた場所へ出発しました。そして、自分の一人子、イサクを捧げました。なぜでしょうか? 神様を畏れたからです。 あなたが私を恐れたことを知ったと聖書は、語っています。

創世記22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。 

ここから、アブラハムは、神様の友となったのです。そして、神様の秘密を教えてくださるようになりました

ソドム・コモラについて語られました。裁きがあることをアブラハムに知らせました。

しかし、ロットは、町の中に住んでいました。ロットは、知らないのです世的なクリスチャンのように、自分の中心が神様より、当時のソドムにあったからです

アブラハムのとりなしの哀れみによって、ロットは、救われました。

アブラハムは、神はヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と告白することが出来ました。神様は、アブラハムを私の友であると言いました。もし、神様に従うなら、そして、神を畏れるなら、その時、神様の性質を表され、神様を愛することが出来るようになります。

多くの人が、有名人や女優や運動選手を知っていると言います。そして、愛するとも言う人がいます。しかし、彼らを知らないのです。もし、彼らを本当に知るなら、好きでなくなるかも知りません。

神様を愛することには、神様を畏れ、神様を知ることが必要です

神様を畏れる事が、私たちを罪から離れさせ、神様を知るように導きます。  これが、祝福や繁栄の中を生きる原則です。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です