#1 人生の足跡
今年で私は48歳となりました。1963年2月7日から今まで生かされたのは、他でもない、神様の許しと目的があったからです。それを思うときに神様に感謝せずにはいられません。
人生の転換期
私の人生を大きく三つに分けることが出来ます。
- 韓国での生活(生まれてから20歳になるまで)
- アメリカでの生活(20歳から35歳まで)
- 日本での生活(35歳から現在まで)
- キリストと結びついていない時期(生まれてから17歳まで)
- キリストを受け入れ、自分の罪を悔い改め、新たな人として歩む時期(17歳から今まで)
- 召しが与えられる前の時期(17歳から33歳まで)
- 召しが与えられてからの時期(33歳から現在まで)
今振り返ると、私に与えられた人生は、いかに素晴らしいものであったか感謝を捧げる限りです。
私の記憶の初めは、母の胎の中に遡ります。そこで私は足を伸ばしたいと思い、自分の足を思い切り伸ばした覚えがあります。目はつぶったままだように思われますが、その瞬間の感覚をはっきりと覚えています。
神様は、母(現在77歳)と数年前に亡くなった父を私の両親として与えてくださいました。父の背景は広大な土地を持つ裕福な家庭でありました。財産管理をする専属の雇い人までいたようです。しかし、日韓合併や国内戦争により、祖父は財産を失いました。まず、日本の軍隊により強制的に奪われ、また国内戦争でも共産党により強引に没収され、更には、ブルジョアと見なされ、殺されてしまいました。
幼い私の父を残して祖父は亡くなりました。父の母は、再婚して数人の子供を産み、その後、再婚した主人を戦争か何かで亡くし、女手一つで非常な苦労の中、子供を養い育てました。
その中で、7人兄弟の長女である私の母と、韓国の戦争が始まった1950年結婚しました。私の父は、KATUSA(Korean Augmentation Troops to the United States Army 駐韓米陸軍に配属されている軍人)という米軍と韓国の軍隊が一緒になった特殊部隊で下士官として働きました。今でも、アメリカ人のGIと共にとった写真があったのを思い出します。父は、そこで英語を学びながら、貧しかった韓国の時代でありながらも、アメリカ軍隊に属することで、米軍基地からアメリカ製品を買って使うことが出来たそうです。
私の上の姉は、1952年このような状況の中で生まれました。話によると、彼女は、1955年次に生まれた私の兄を長男として周りが可愛がるのにねたみ、「私もおちんちんを買ってもらいたい」と言ったそうです。1958年には、私の2番目の姉が生まれました。私は、末子ですが、私の前にもう一人がいたのですが、生まれる時に問題があり、亡くなったそうです。その後、1963年私が生まれました。
最近見た日本の映画で、「三丁目の夕日」というものがあります。それを見ると、私の生きた時代背景と良く似ていて、懐かしく、心が温かくなりました。
父は、戦争が終わった1953年以降も、KATUSAで引き続き、職業として軍隊生活を送っていました。家族は、離れていたので、定期的に短く帰宅していました。
若い時に父を亡くした母は、長女として家を助けるために精一杯働きました。下の妹や弟の世話、洗濯、掃除は勿論、食べさせるために山菜取りや木の実を採りに山へも頻繁に出向いたようです。自分がしっかりしなくてはならないという思いがあったので、常に休まず働きました。母の一番下の妹は、私の上の姉より1歳年下でありました。
母と父が婚約した後、母は水疱瘡にかかり、顔の皮膚が変形したので、これで結婚が出来ないのではないかと心配をしたそうです。しかし、父は、それに気にすることなく、予定したとおり、結婚しました。
