2025年9月28日
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日本の歴史とリバイバルについての啓示

アブラハム先生

先日、池上家でお会いでき感謝でした。その際にお話しした、この国のリバイバルについての啓示についてまとめてあったものをお送りいたします。前半はこの国のここ400年の歴史について、主から与えられた理解を記しています。記事の中に出で来るmaxwell氏とは、ガーナ人の友人で、当時北大で研究していました。残念なことに彼はkansas cityの研究所に移ったので、彼との祈り会はわずか6か月で終了となりました。

日本のリバイバルの幻

-北海道と沖縄がともに担う務めについて-

ベテル・クリスチャン・フェローシップ  三熊直人

 

 

2003年は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が始まってからちょうど400年で、様々な記念行事が東京で行われました。私はこの国の支配のシステムについて歴史を検証すべく導かれていますが、江戸時代に確立されたものが今に至るまで、形こそ違っていてもこの国を支配し続けているように感じています。その権力の実態は、おそらくイザベルの霊と呼ばれるもので、現在それは官僚とそのシステムの背後にあるものだと考えられます

 

1467年の応仁の乱から、徳川家康が日本全土を平定するまでの約150年間は、戦国時代と呼ばれる群雄割拠の時代でした。各地方に領主がおり、覇権をめぐって血で血を洗う時代でした。しかし、織田信長、豊臣秀吉が現れ、さらに1600年の関が原の戦いで徳川家康率いる東軍が西軍に勝利したあと、1603年212日の江戸幕府の開府に向けて時代の流れが加速して行きました。江戸幕制のもとでは、地方の大名の子弟は江戸で生活するように命じられました。彼らは、江戸幕府にとって、地方の反乱を抑えるための人質でした。戦国時代にあって、徳川家康とともに戦ったものたちは、旗本として江戸城の周囲に屋敷を構え、徳川家にとっての親衛隊また官僚としての役割を担っていました。しかし、家康が死に、2代目秀忠、3代目家光の時代に、老中・若年寄と呼ばれる官僚組織が確立されました。徳川家の治世が続くにしたがって、将軍をサポートするはずの官僚組織の力が強くなって行き、最後の将軍である徳川慶喜の前の3-4人の将軍は統治能力がなく(精神障害者さえいました)、老中・若年寄(官僚)の支配の下に踊らされている指人形のようなものでした。聖書が言うように、子供は主から与えられる祝福ですが、徳川家には子孫が恵まれず、将軍家の維持のために何人もの養子を受け入れざるを得ませんでした。最後の将軍である徳川慶喜も、本来なら、将軍という立場に就くはずのない水戸家の生まれでした。

徳川幕府の開府からちょうど30年たった1633年に鎖国政策が取られ、その結果、キリスト教だけではなく、すべての外国との文化的、通商的、政治的関わりが絶たれました。また、徳川幕府の支配権を強化するために、参勤交代などの政策によって、地方の諸大名と人々は疲弊して行き、江戸(東京)を首都とする支配のシステムが確立されていきました。しかし、アメリカ海軍のペリー提督が率いる7隻の黒船の軍事的圧力によって、つまり“外圧”によってこの国は再び開かれました。外国との往来が再開すると同時に、宣教活動も再開されました。主は、アメリカとその軍事力を用いて、この国に再び福音宣教の道を開かれたのです。

これとまったく同じ図式が、現代においても認められます。外交的に受身に回る事が多い日本の政府・官僚組織は、様々な外圧を受けたあとで、ようやくその重い腰を上げるというのが常です。残念ながら、日本には自己変革能力がなく、アメリカなどからの“外圧”によってのみ変革が可能であるという考え方を支持するものです。これは国内的にもまったく同じことです。ただその場合、国民は偽りの情報を与えられ、その真偽を追求するための情報も提示されず、政府・官僚機構に都合の良いようにあしらわれているというのが現状でしょう。最近の日本道路公団や郵政公社の不祥事、北海道警察の裏金問題に関する対応などは、こうした体質を如実に体現しているといえましょう。

さて、この「ペリーの黒船」問題に対する幕府の対応を不満とする薩摩(鹿児島)・長州(山口)・土佐(高知)を中心とした勢力が、倒幕、そして明治維新という時代の流れを作っていきます。この時のスローガンが《尊皇攘夷; 天皇を尊び、異民族を卑しむ》でした。これは本々、十五代将軍慶喜の実家である、水戸徳川家が言い出したことなのですが、慶喜自身がそれを唱える薩長に倒されるというのも皮肉なものです。しかし、実際のところ、薩長は京都にいた天皇を、自分たちの反乱戦争を正当化するために、利用したにすぎないのでした。自分たちの側に天皇を引き込み、それを徳川将軍家と幕府の権威に対抗するための旗印bannerとしたにすぎませんでした。

明治政府の官僚組織は太政官(略して「官」)と呼ばれ、支配階級であった武士社会を解体したり、藩を廃止して新たに県を制定(いわゆる廃藩置県)したりと、非常に強大な権威を与えられてこの国の仕組みを変えていきました。しかし、徳川幕府で、将軍をサポートするはずの官僚組織(老中・若年寄など)が実権を握っていたように、明治維新後の新政府においても、実際の権力は天皇陛下ではなく官僚組織が握っていました。徳川幕府の本丸があった江戸城は、今、天皇陛下の住まいである皇居となっています。幕末の将軍がそうであったように、明治から現代にいたる天皇陛下も実権を有するものではありません。これも偶然ではないでしょう。そして、「国民の象徴」であるそのような天皇陛下が置かれている状況は、日本国民が置かれた、「主権在民」とはかけ離れた現実そのもののように見えます。

現在、この国にあって最も大きな権力を有しているのは、政治家でも、総理大臣でも、自民党でもなく、官僚組織です。この構図は、これまで説明してきたように、江戸時代から今に至るまでの400年間、一貫して変わることのないものです。その時々において、配役が変わり、名称が変わっていますが、その本質はまったく変わっていません。彼らはアハブ王の妻イザベルと同じように、表には将軍・天皇陛下・政権政党の有力議員・総理大臣などを立て、人の目に触れない裏側で様々な影響力を行使し、官僚システムの存続に都合のよい政策を導き出そうとしています。官僚(組織)の目的とするところは、この国の利益ではなく、組織の保持・繁栄・力(国民の税金の分配権)を守ることです。彼ら“官僚”、また、“官僚組織“を突き動かしているものが、「イザベルの霊」であると思います。この霊こそが、我々が立ち向かわなければならない真の敵です。その影響力の下で、官僚一人一人が、あるいは官僚組織がどんな邪悪な事をしていようとも、彼ら自身が敵ではありません。

 

2003年12月12日(金)の祈り会の中で、主は“今が主の恵の年である” (イザヤ61:2)と語られました。主の暦では、2003年9月27日のRosh Hashanahから新しい年が始まっています。イザヤ61:2は、主の恵の年が、同時に、主の復讐の日であることを告げています。このことは、エジプトで400年間、奴隷として苦役に服したイスラエルが預言者モーセに導かれて解放されたとき、イスラエルを苦しめたエジプトの上に主の裁きが現わされた事を思い起こさせます。エジプトでのイスラエルの苦難が400年で終わったように、主は今、この国に恵の手を差し伸べておられます。パロが簡単にはイスラエルを去らせなかったように、この戦いも簡単ではないでしょう。しかし、我々はこのチャンスをしっかりと握り、失う事のないようにする必要があると思います。

 

以下に記した幻は、すべて友人であるMaxwell氏と2003年11月から始めた祈り会の中で、主が私に与えてくださったものです。この祈り会は、日本の救いとリバイバルのためのものでした。しかし、通常の祈り会と違い、祈り始める前に主ご自身からの導きを求め、それに従って祈るという方法で祈っていました。そのように、具体的な導きを求める中で与えられたものが以下の幻でした。

 

1月16日(金)

沖縄から北海道まで大きな虹が架かっている幻を見ました。その解き明かしとして与えられた解釈は、「沖縄と北海道のクリスチャン(教会)が手をつないで一つとなる。そして、そこに豊かな主の油注ぎが与えられ(詩篇133篇)、大きな虹を見るように、日本中の人々-特にクリスチャンたち- がそれを見て、主にある一致とは何かを学ぶ事となる。沖縄と北海道のクリスチャンの一致が、主にある一致ということについての模範となり、この国全体の神の民がどのように一致すべきか、ということについての基準となる。」というものでした。

 

 

1月23日(金)

この日の祈り会では幻を2つ見ましたが、どちらも同じメッセージを語っています。

 

第一の幻では、大きな主の手が現れ、右手は北海道、左手は沖縄をつかみ、日本全体がその手によって引き上げられました。日本は全体として剣のような形をしていることはお気づきだと思います。これまで、敵である悪魔の手に握られ、悪しき業のために用いられたこの国が、主の手の内にあって良き業、主のみ業のために用いられる剣となるというものです。ゴリアテを倒したダビデは、その後の生涯でゴリアテの剣を自分のものとして使い、大いなる業を成し遂げました。ダビデの王座に座るお方の手にこの国が取り返されるとき、日本は主の手に握られた剣として大いなる主のみ業を成し遂げるでしょう。

 

同じ日の第2の幻では、2匹のセラフィムのようなあるいは黄金の鷲のような生き物が現れ、1匹は沖縄を、もう1匹は北海道を、その力ある足の爪でつかみ、空中に持ち上げるというものでした。

 

 

1月30日(金)

この祈り会では、まず北海道から非常に力強い風が起こり、それが南に下っていきました。それと同時に沖縄から、鉄砲水のような力強い大水の流れが起こり、それが北上してゆきました。この、北(北海道)からの強風と南(沖縄)からの大水は東京で出会い、地上から天に向かう大きな竜巻を起こしました。そして、多くの人々が地上から天に引き上げられていきました。

 

北海道から起こる風の源を見ると、それは一匹の大きな鷲によって起こされました。その鷲は、高い山の上に座っており、その力ある大きな翼で風を起こしました。鷲は、預言者、あるいは預言的なミニストリーの象徴です。

 

 

 

2月13日の祈り会

僕がさらに見た幻では、中年の白人女性が断崖絶壁の崖の上に立っていました。彼女の髪は長いブロンドで、古めかしい黒ぶちのめがねをかけていました。そして、彼女の着ているローブのようなワンピースのドレスは真っ白でした。彼女は、言葉は一言も発しませんでしたが、向かい合っている海の水に腕を降って合図すると、海の水は先を争うように北上していきました。

 

この幻の解釈についての解釈は次のようなものだと考えられます。その女性は教会です。中年だということは、おそらく長い歴史を持つカトリック教会でも、歴史の浅いペンテコステ派の教会でもなく、福音的教会と考えられます。そして、めがねをかけているということは、目に問題があり、見えるはずのものが見えない状態だということです。しかし、主がめがねを与えられることによって見えるようになり、しかも、海に命じてその水を動かすような力ある業をなすようになったのです。バプテスト教会などは、このカテゴリーに収まるものだと思います。白い衣は、勿論、罪・汚れのない純粋さを表します。人種的に、白人女性のように見えたのも、同じ意味だと思います。中年の白人女性が白人(外国人)主体の教会である、あるいは、特定の白人女性であるという解釈は適当でないでしょう。

 

沖縄から、大水の流れが起こるためには、誰かがその水に預言する必要があります。モーセが両手を紅海の上に伸ばしたときに、その水が2つに分かれました。エゼキエルは息に預言し、枯れた骨が生き返りました。イエス様は水と風に預言し、その嵐を鎮めました。同じように水に対して預言する者が必要であり、その者の働きなしに水は動かないのです。

 

結局、沖縄と北海道の両方において、預言的ミニストリーが鍵となるようです。

 

 

2月20日の祈り会

さらに、主が日本を弓のように用いられるのを見ました。日本の地形は、剣のようでもあり、また、弓のようでもあります。弓の両端である沖縄と北海道に弦が張られていました。そして、主の見えない腕がその弦を引くと、沖縄と北海道が近づけられました。もし、最初の幻で見たように沖縄と北海道にある教会の一致・団結が実現するとすれば、それは人の努力によるのでなく、主のみわざによるという事です。そして、この引かれた弓から矢が放たれるのを見ました。この預言が成就するときに、日本は多くの宣教師を世界に送り出す国となるでしょう。

 

その場合に、矢として日本から解き放たれるのは若者たちです(詩篇127篇3-5節)。彼らは、研ぎ澄まされたものたちであり、敵の心臓を貫き通し、その息の根を止めるものたちです。つまり、福音宣教と同時に神の審判を担うものたちです。それは、これまでの一般的な宣教とは、趣がかなり違ったものでしょう。それは、神の霊による力の宣教です。ヨエル書2章1-11節に描かれている、いわゆる「ヨエルの軍隊」の一部として機能するでしょう。

 

2月27日の祈り会

日本が燃える剣のように見えました。その火は沖縄に最初に点火され、他の日本の地域に広がっていきました。そして、主の御手が剣の柄の部分である北海道をつかみ、その剣が立てられた状態で持ちました。これは、戦いに臨むときの剣の持ち方です。その火は、柄の部分を除いて剣全体に広がり、日本中が燃えていました。しかし、炎の先端部分が一番熱いように、沖縄の熱気は、日本の他のどの部分よりも激しいものでした。日本のリバイバルの火が、まず沖縄に灯され、日本中に広がっていきます。しかし、沖縄は、日本中で最も熱い火が燃え続ける場所であり続けるでしょう。

 

北海道は火で燃やされる変わりに、主の御手に握られていました。日本のリバイバルが沖縄から始まるとき、北海道は他の日本の地域とは違う取り扱いを受けるように見えます。しかし、いずれにしろ、北海道も大いなる主のみ手によって握られるのです。

 

今、この国は大きな岐路に立っています。主は、この国に手を差し伸べ、偶像礼拝に満ちたこの国をもう一度ご自分のものとしようとしておられます。なぜ日本のリバイバルが沖縄と北海道の一致から始まるのか、その理由はわかりません。しかし、それはこの国のためであると同時に、終わりの時を迎えたこの世界において、日本が果たすべき役割を成し遂げるために必要はことなのだということが、主からの一貫したメッセージです。主は、われわれ日本の教会と神の民に大いに期待しています。

 

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