ビジネスを通した宣教への導き
ビジネスを通した宣教への導き
自分は、イギリスのHudson Taylorという宣教師の後をついで「Faith Mission」(すべての必要は主が満たしてくださる。だから、主の示したところへ行くことを惜しまない。)という精神を受け継ぎ、1991年から1995年の5年間YWAMの宣教師になることを決めました。
ところが、1995年10月いっぱい北海道の札幌のために祈りをした後、神様は1996年1月23日札幌から帯広へ行く汽車の中で、「ビジネスと宣教を一緒にする。」という召しを受けるようになりました。その意味は、今になって初めてもっと良くわかるようになりました。
その後、帯広の教会で協力宣教師として働きました。その中で、色んな出来事がありましたが、もともとの私たち夫婦の願いは、日本から海外へ宣教師と して出て行く祝福の元となる人々を育ちたいと思いました。そのために、1999年の夏、当時帯広畜産大学校の学生たち3人と共に、祈りの中に示されたイン ドネシアへ短期宣教に行きました。インドネシアに行きましたら、そこのクリスチャンたちは、すでにビジネスと宣教は、共存しているものであることを生活に 実践しているのを目撃しました。中国人係のインドネシア人が多かったが、彼らは、牧師であっても、信徒であっても多くの人がアメリカで MBA(Master of Business Administration)という「経営学修士」の学びを終えていました。また、教会の運用においても、このようなMBAの学びのやり方を導入し、合 理的な方法を実践していました。
また、1998年には、アメリカのシカゴで行われたテントメーカー(Tentmaker)のIntentカンファレンスに参加しました。日本から、当時共に同じ方向へ行こうとしていた、有志と一緒に参加しました。話が前後しますが、このカンファレンスを通して、なぜパウロが海外宣教をする時に自分も仕事をしていたのかがわかるようになりました。
1997年12月に日本に定住することを決めたのですが、日本で模範を見せてくださいと神様に祈りました。その時に、12月24日東京を経由している間に、文化オリエント社(現、GrapeCity) の当時社長であるPaul Broman(岩佐勝)氏と出会いました。当時、東京のVIP運動のリーダーの一人である、佐々木満男弁護士と堀井兄弟とアフリカから来た兄弟と共にお昼 を共にする機会が与えられていました。その出会いの中で、自分が行くべき道は、ビジネスと宣教を同時にすることであることを決定的に確認できました。主の 祈りの答えであることを心に深く感謝しました。