エレミヤ24章 わたしが主であることを知る心
エレミヤ24章 わたしが主であることを知る心
神様は、エレミヤに二つのいちじくを盛った籠を置き、一つには、良いいちじくを、もう一つには、悪いいちじくを置きました。それをエレミヤに見せて、イスラエルからバビロンに捕囚として行った民を哀れみ、良いいちじくのように哀れむことと、イスラエルに残った民は、悪いいちじくのように捨てることを語りました。
また、バビロンに捕囚として行った人々には、「わたしが主であることを知る心」を与え、真心を持って神様のもとへ帰ってくるようになると伝えています。
24:5 「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。
24:6 彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。
24:7 そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
ここに大事な概念があります。それは、神様を知ることは、神様からの「啓示」が必要であることです。神様を知ることは、家の外から家の中を見るには、窓のカーテンを開けることで中が見えるようになります。神様の家のカーテンを開いてくださることは、神様しかできません。そして、そのカーテンを開くことを「啓示」と言います。この啓示があるとき、人間は、神様を見ることができ、全部を知ることができなくても、神様の家の中の様子がわかるようになります。
神様は、私達に啓示を与え、神様の計画や人間に語ろうとすることを知らせてくださいます。勿論、祈ることや聖書(バイブル)を読むことで、神様を知ることも可能ですが、神様の啓示がなければ、聖書を読んでも、神様を知ることはできません。祈りの行為は、同じであっても、その祈りの中にも、神様からの啓示が与えられる時、神様の意向や御心を知ることができます。
神様の啓示によって、私達は、神様を知ることができます。この啓示は、神様に自分の全てを委ね、聞かれたことを必ず行おうとする全ての人に、与えられます。
今は、恵の時であり、神様の御霊によって神様の啓示が豊かにある時期でもあります。
しかし、啓示は、イエス・キリストを心に受け入れ、自分の罪を告白し、神様に自分の全てを委ねる人に与えられます。
その人は、幸いを得、生きる意味や目的を啓示によって知ることができます。
ゴスペルハウス
アブラハム・リー
24:1 主がわたしに示された。見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。
24:2 一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。
24:3 主はわたしに言われた。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは言った。「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」
24:4 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。
24:5 「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。
24:6 彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。
24:7 そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
24:9 わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
24:10 わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」